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東京地方裁判所 昭和47年(ワ)5567号 判決

福井県大野市篠座六四号九ノ七

原告 林千代子

〈ほか三名〉

原告ら訴訟代理人弁護士 岡田克彦

同 豊田誠

同 南元昭雄

東京都港区元赤坂一丁目二番七号

被告 鹿島建設株式会社

右代表者代表取締役 渥美健夫

右訴訟代理人弁護士 牧野賢弥

右訴訟復代理人弁護士 松本廸男

主文

一  被告は、原告林千代子に対し、金二五六万〇六〇八円及び内金二二六万〇六〇八円に対する昭和四七年七月一三日から、内金三〇万円に対する昭和五二年六月一六日から各支払済みに至るまで年五分の金員を支払え。

二  被告は、原告林たか子、同林昌浩及び同林ひろみに対し、各金四二四万七一四八円及び内金三八四万七一四八円に対する昭和四七年七月一三日から、内金四〇万円に対する昭和五二年六月一六日から各支払済みに至るまで年五分の金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用はこれを五分しその二を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、

(一) 原告林千代子に対し、八三七万五九三三円及び内金七二八万五九三三円に対する昭和四一年八月二九日から、内金一〇九万円に対する昭和五二年六月一五日からそれぞれ支払済みに至るまで年五分の金員を支払え。

(二) 原告林たか子、同林昌浩及び同林ひろみに対し、それぞれ五一九万三九五五円及び内金四五二万三九五五円に対する昭和四一年八月二九日から、内金六七万円に対する昭和五二年六月一五日からそれぞれ支払済みに至るまで年五分の金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

原告らの請求をいずれも棄却する。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  労働契約の成立

訴外亡林昌彦(以下「訴外昌彦」という。)は、昭和四一年一月、被告会社との間に労働契約を締結し、以来被告会社において土工として作業に従事していた。

2  本件事故の発生

訴外昌彦は、昭和四一年八月二九日午後〇時一〇分ころ、福井県大野郡和泉村長野三三号六番地の長野発電所新設工事第一工区工事(以下「本件工事」という。)のうち、長野ダム(以下「本件ダム」という。)建設現場(以下「本件現場」という。)における被告会社所属の休息用建物(以下「本件建物」という。)内において、被告会社の他の従業員とともに昼食のため休憩していたところ、被告会社の従業員の行った本件ダムの洪水吐水口部の発破(以下「本件発破」という。)による飛散した岩石が本件建物に落下し、これが本件建物の屋根を突き抜けて訴外昌彦の頭部に命中した。このため、同訴外人は頭蓋骨解放性陥没骨折の重傷を負い、その結果翌三〇日午後二時四五分ころ、九頭竜川厚生診療所において死亡した。

3  被告会社の責任

(一) 被告会社は、前記1記載のとおり訴外昌彦と労働契約を締結したのであるから、右の労働契約の内容として、訴外昌彦に対し、同訴外人の被告会社に対する労務提供中に同訴外人の生命、身体に危害が発生しないように同訴外人の安全を保護する義務(以下「保護義務」という。)を負担していた。

(二) そして、被告会社は右の保護義務の具体的内容として、発破作業を行う本件現場において作業に従事していた訴外昌彦に対し、次のような義務を負担していた。

(1) 労働安全衛生規則(昭和二二年労働省令第九号。以下「旧規則」という。)一五二条の三の規定に従い、資格を有する電気発破作業指揮者を置き、発破作業に従事する労働者に対し、発破作業の安全に関する指導を適正に行わしめること。

(2) 発破を実施するにあたり、発破によって危害発生が予測される範囲(以下「危険区域」という。)内において作業に従事する労働者を、危険区域外に退避させ、且つ、これを確認すること。

(3) 危険区域内に作業所又は休息所を設置しないこと。仮に危険区域内に作業所又は休息所を設置している場合には、発破にあたり、右の作業所又は休息所の内部にいる労働者を、危険区域外に退避させ、且つ、これを確認すること。

(4) 作業所又は休息所を退避所と兼用する場合には、建物内部の労働者が発破による危害を受けないように、建物の周囲及び上部に堅固な防護壁等を設置するなどの危険防止措置を講ずること。

(三) しかるに、本件事故は以下に述べるとおり被告会社が右(二)の訴外昌彦に対する具体的な保護義務をいずれも履行しなかったために発生したものであるから、被告会社はその債務不履行に基づく後記損害を賠償すべき責任がある。すなわち、

(1) 被告会社は、旧規則一五二条の三が規定する電気発破作業指揮者を定めていない。本件工事の事業場では、「発破作業規則」という内部規定を制定していたが、右の規則には発破作業指揮者の設置についての規定はない。

(2) 本件建物は発破箇所から一四八メートルしか離れていない地点に存在しており、本件現場内の洪水吐工事現場で発破作業を行う場合の危険区域として設定された地域内に存在していたにもかかわらず、被告会社は、訴外昌彦を含む一三名の労働者(以下「浜田班」という。)に対し、危険区域及び発破時には本件建物内部にいてはならない旨の指示をしておらず、また、浜田班を指揮する責任者である被告会社の従業員訴外高浪勝(以下「訴外高浪」という。)は、本件発破を事前に承知していたにもかかわらず、昼食のため浜田班の労働者とともに本件建物に入り、安全であると軽信して浜田班の労働者を退避させなかった。

(3) 前記のように本件建物は危険区域内に存在し、且つ、本件建物内において浜田班の労働者が食事をしていたことは本件現場内のダム盛立工事現場見張所(以下「本件見張所」という。)から充分確認することができたにもかかわらず、本件見張所内の被告会社の担当従業員は、本件建物内からの浜田班の労働者の退避を確認することを怠った。本件見張所内の被告会社の担当従業員が浜田班の労働者の退避の確認を怠ったのは、次のような原因に基づくものである。すなわち、第一に本件見張所の担当従業員が専ら危険区域外からの進入者のみに注意を払っていたためであり、第二に洪水吐工事現場で発破作業を行う際に本件見張所の行うべき業務(退避の合図、警報の発令、点火の合図等)について指揮者が確立されておらず、責任体制が不明確であったためであり、第三に発破実施者と本件見張所との連絡が直接的なものでなく、放送による一方通行的な意思連絡状況通報を行っていたためであり、第四に洪水吐工事現場において発破作業を行う場合、洪水吐工事現場及びダム盛立工事現場はそれぞれの危険区域からの退避確認を独立して行うことにしており(但し、既に述べたようにダム盛立工事現場においては退避確認についての責任体制が不明確であった。)、総括的一元的な発破作業の指揮(特に退避確認についての指揮)が行われていなかったためである。

4  損害

(一) 訴外昌彦の損害

(1) 逸失利益

訴外昌彦は本件事故による死亡当時四二歳の健康な男子であったから、本件事故により死亡しなければ、少なくとも六三歳に至るまでの二一年間は労働可能であり、何らかの企業に勤務し相当の収入を得ることができた。そこで、総理府統計局作成の日本統計月報(昭和五〇年一二月版)のうちの産業別労働者賃金の統計数値により、訴外昌彦の昭和四一年九月から昭和五〇年一二月までの収入を計算すると、その合計額は別表1記載のとおり九九六万三七五六円となる。また、訴外昌彦は昭和五一年以降昭和六二年までの一二年間(一四四か月間)、少なくとも毎月一〇万円程度の収入は可能であるから、月別ホフマン方式により年五分の中間利息を控除して現価を算出すると、その額は別表2記載のとおり一一二六万一三〇〇円となる。したがって、訴外昌彦の逸失利益の合計額は、二一二二万五〇五六円となるところ、同訴外人の生活費として二〇パーセントを控除すると、結局同訴外人の逸失利益は一六九八万〇〇四四円となる。

(2) 慰藉料

訴外昌彦は、従来本件現場周辺で森林伐採夫として労働し、妻子とともに平穏な生活を営んでいたところ、被告会社の本件ダム工事により生業を失い、被告会社の従業員として雇傭されるに至ったものであるが、本件事故により生命までも奪われた。同訴外人の運命はまことに悲惨というべきであり、その精神的苦痛に対する慰藉料は五〇〇万円を下らない。

(3) 原告らの相続

原告林千代子(以下「原告千代子」という。)は訴外昌彦の妻であり、その余の原告らはいずれも原告千代子と訴外昌彦との間の子であるので、同訴外人の死亡により、同訴外人の被告会社に対する右(1)、(2)の損害賠償請求権(合計二一九八万〇〇四四円)を法定相続分に従い、原告千代子は七三二万六六八一円、その余の原告らは各四八八万四四五四円をそれぞれ相続により取得した。

(二) 原告らの慰藉料

訴外昌彦は原告千代子の夫、その余の原告らの父であり、一家の大黒柱であったが、本件事故により原告らは頼りとする夫、父を失い今後とも厳しい生活に耐えなければならないのであるから、原告らの右のような精神的苦痛に対する慰藉料は、原告千代子について二〇〇万円、その余の原告らについて各一〇〇万円を下らない。なお、本件のような事故が発生すれば、訴外昌彦の妻子である原告らが右のような精神的苦痛を受けることは被告会社において充分予測しえたことであるから、被告会社は右の損害についても賠償義務を負うといわなければならない。

(三) 弁護士費用

被告会社は右のような賠償義務を負うにもかかわらず現在に至るも誠意を示さないので、原告らは本訴の遂行を弁護士である原告訴訟代理人らに委任し、その費用として原告らが本訴において請求する額の一五パーセントにあたる金員を支払うことを約した。したがって、本訴請求が認容されれば、原告千代子は一〇九万円(但し、一〇〇〇円以下切捨。)、その余の原告らは各六七万円(但し、一〇〇〇円以下切捨。)の支払義務を負担することとなるが、これは被告会社の前記債務不履行と相当因果関係にある損害として、被告会社が負担すべきものである。

5  結論

以上によれば、被告会社に対し、原告千代子は一〇四一万六六八一円、その余の原告らは各六五五万四四五四円の債務不履行に基づく損害賠償請求権を有するところ、原告らはさしあたり本訴においては、被告会社に対し、(一)原告千代子は八三七万五九三三円及び内金七二八万五九三三円に対する昭和四一年八月二九日から、内金一〇九万円(弁護士費用相当分)に対する第一審判決言渡の日である昭和五二年六月一五日からそれぞれ支払済みに至るまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を、(二)その余の原告らは各五一九万三九五五円及び内金四五二万三九五五円に対する昭和四一年八月二九日から、内金六七万円(弁護士費用相当分)に対する第一審判決言渡の日である昭和五二年六月一五日からそれぞれ支払済みに至るまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を、それぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち、被告会社が訴外昌彦を土工として雇傭していたことは認める。

2  請求原因2の事実は認める。

3(一)  請求原因3(一)の事実のうち、被告会社が訴外昌彦に対し保護義務を負担していたことは否認する。但し、被告会社が旧法四二条以下に規定された安全及び衛生に関する義務を負うことは認める。

(二) 請求原因3(二)の事実のうち、被告会社が訴外昌彦に対し原告ら主張のような具体的な内容の保護義務を負担していたことは否認する。但し、被告会社が電気発破作業について旧規則一五二条の三に規定された義務を負うことは認める。

(三) 請求原因3(三)の事実のうち、被告会社が労働契約の不履行による損害賠償義務を負担することは否認する。

本件発破の点火作業開始にあたっては、事前に四回(午後〇時〇分、同五分、同七分、同九分)にわたり場内放送により点火を予告し退避を促した(第一回目及び第四回目はサイレン併用)。また、堰堤工事担当の被告会社従業員約一〇名が、危険区域からの退避を確認すべく監視したが異状は認められなかった。更に、被告会社は本件建物を工具材料小屋として使用していたものであるが、これを労働者の休息所として使用することを認めたことは全くなく、常時工具材料置場以外に使用してはならない旨を警告していたのであり、したがって労働者が本件建物内にいることは全く予想しなかった。以上のとおり、被告会社としては発破作業による危険防止のための万全の策を講じたものである。訴外昌彦は、作業分担上骨材採取場から堰堤工事応援のため臨時に派遣されてきた訴外高浪を責任者とする一三名の労働者のうちの一名であり、訴外昌彦らは、本件発破のことは事前に承知していたにもかかわらず、昼食のため本件建物に立ち入り、安全なものと軽信して退避しなかったものである。

4(一)  請求原因4(一)(1)の事実のうち、訴外昌彦が死亡当時四二歳であったことは認め、その余は争う。同訴外人の死亡当時の平均賃金は、一日あたり一〇〇一円であった。

(二) 請求原因4(一)(2)は争う。

(三) 請求原因4(一)(3)の事実のうち、原告千代子が訴外昌彦の妻であり、その余の原告らがいずれも原告千代子と訴外昌彦との間の子であることは認め、その余は争う。

(四) 請求原因4(二)は争う。

(五) 請求原因4(三)の事実は知らない。

三  抗弁

1  損害賠償請求権の放棄

昭和四一年一〇月一一日、被告会社と原告らとの間に本件事故について、被告会社は原告らに対し示談金五〇万円を支払い、原告らは被告会社に対する本件事故によるその余の損害賠償請求権を一切放棄する旨の示談契約(以下「本件示談契約」という。)が成立した。したがって、原告らは、被告会社に対する損害賠償請求権を一切放棄したものである。

本件示談契約の成立及び示談書の作成に際しては、担当係員であった被告会社の労務課長代理訴外佐藤喜一郎(以下「訴外佐藤」という。)が原告千代子及び訴外昌彦の実兄である訴外林彦一(以下「訴外彦一」という。)に対し、示談書を読み上げ、本件示談により今後損害賠償請求はできなくなる旨を説明しているのであり、原告千代子はこのことを了承して押印することを承諾し、訴外彦一もこのことを確認し立会人として署名押印したのである。原告らは、原告千代子は本件示談書に押印することにより今後一切損害賠償を請求することができなくなるという認識を欠いたまま押印を承諾したと主張するが、原告千代子は当時三一歳であり、本件示談書の持つ意味を理解しえなかったとは到底考えられない。

2  弁済

仮に本件示談契約が無効であるとしても、被告は原告らに対し、昭和四一年一〇月一一日本件事故に基づく損害賠償として五〇万円を支払った。

3  労災保険給付金の控除

原告らが労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づき、後記のとおり既に給付を受けた金員及び将来給付を受けるべき遺族補償年金(以下「年金」という。)は、原告らが相続した訴外昌彦の逸失利益から控除すべきである。

(一) 原告らが既に給付を受けた金員は、別表3記載のとおり合計三二四万一二四二円である。

(二) 原告らが昭和五一年五月分以降に給付を受けるべき年金の昭和五一年五月における現価は、別表4記載のとおり一一一一万九五三六円である。

(三) したがって、原告らが相続した訴外昌彦の逸失利益から控除すべき金額は、右(一)、(二)の合計一四三六万〇七七八円となる。

なお、右の控除すべき金額が原告らの相続した訴外昌彦の逸失利益の額を超える場合には、この点は原告らの慰藉料額の算定にあたり考慮されるべきである。

(四) 原告らが労災保険法に基づき既に給付を受けた金員はいうまでもなく、将来給付を受けるべき年金も原告らが相続した訴外昌彦の逸失利益からあらかじめ控除すべきは当然である。すなわち、労働者災害補償保険(以下「労災保険」という。)は、労基法の災害補償義務を担保する責任保険としての性格を有するものである。一方、労基法八四条二項により使用者は補償の限度で民法上の損害賠償責任を免れる旨明定されている。したがって、労災保険法により遺族が年金を受ける権利を取得したときには、将来給付を受けるべき年金も損害額から控除すべきことは明白である。なお、この点に関し原告らが主張するところは第三者の行為による災害の場合であり、本件はそのような場合ではないのであるから、原告らの主張は失当である。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実のうち、原告らは被告会社に対する本件事故によるその余の損害賠償請求権を一切放棄する旨の示談契約が成立したことは否認する。すなわち、本件示談契約の示談書の文案等は、被告会社において一方的に作成されたものであり、また本件示談の話し合いの行われた状況は、訴外佐藤が原告ら宅に訴外彦一を連れて突然乗り込み、訴外佐藤と訴外彦一が向い合って話をするのを原告千代子は訴外彦一の後方で三人の幼児の世話をしながら聞いていたにすぎないという状況であり、訴外佐藤は本件示談書の条項を一方的に読み上げ、原告千代子の印を貸してくれといって印を受け取り、同訴外人自ら押捺して本件示談書を作成したものである。本件示談書は右のような経緯で作成されたものであり、原告千代子の側には被告会社に対する損害賠償請求権を放棄するという認識ないし意思は全く存在していなかったのであるから、被告会社の主張するような請求権放棄条項を含む本件示談契約は成立していない。

2  抗弁2の事実は認める。

3(一)  抗弁3(一)の事実は認める。なお、原告らは右の被告会社主張の金員のほか、更に昭和五一年五月分から八月分までの年金として二六万八八七二円の給付を受けたことは認める。

(二) 抗弁3(二)ないし(四)は争う。被告会社は、原告らが労災保険法により将来給付を受けるべき年金は原告らの損害から控除すべきである、と主張する。しかしながら、労災保険法による補償の原因である事故が第三者の行為によって生じた場合に、たとえ将来にわたり継続して定期的に定額の休業補償費等が給付されることが確定していても、これをもって損害を填補すべき現実の保険給付を受けたということはできないから、これによって政府が損害賠償請求権を取得し、保険受給権者の第三者に対する損害賠償請求権が消滅するものではなく、したがって将来の給付額を損益相殺として損害額から控除すべきではないというべきである。したがって、被告会社の右主張は失当である。

五  再抗弁

1  錯誤

仮に被告会社の主張するような請求権放棄条項を内容とする本件示談契約が成立しているとしても、次に述べるとおり、原告千代子には本件示談契約の前提となる事実について重大な錯誤があり、これに基づいて本件示談契約を締結したのであるから、本件示談契約は無効といわなければならない。すなわち、本件示談当時、被告会社は原告千代子らに対し、本件事故の状況、被告会社の責任などについて全く明らかにせず、また原告千代子は本件事故直後の新聞報道によって本件事故の責任は訴外昌彦の側にあると思わされていたのであって、右の事情と前記四1の本件示談書が作成された経緯とを併せ考えると、原告千代子は被告会社に本件事故の責任があるにもかかわらずこれがないとの錯誤に陥っており、このことを前提として被告会社に対する損害賠償請求権を放棄する旨の条項を内容とする本件示談契約を締結したものである。

2  公序良俗違反

仮に本件示談契約が成立しているとしても、本件示談契約は次に述べるとおり公序良俗に反するものであるから無効である。すなわち、第一に、原告らは本件事故により夫であり、父であり、また一家の大黒柱である訴外昌彦を失ったが、その精神的苦痛は絶大であるとともに唯一の生活の資である訴外昌彦の収入が全く途絶することとなった。したがって、原告らは被告会社に対し、二〇〇〇万円以上の損害賠償請求権を有しているものというべきであるから、被告会社が本件示談契約により右の原告らに対する二〇〇〇万円以上の損害賠償義務を、若干の法定の労災保険金のほかに五〇万円の示談金の支払によって免れるものであれば、これは客観的にみて等価交換の原則を全く否定するものであり、暴利行為というべきである。第二に、本件示談当時、被告会社は原告らに対し、本件事故の状況、被告会社の責任、原告らの損害賠償請求権の存在等について全く明らかにせず、原告らの法律的無知及び本件事故後の窮迫に乗じて、原告らとの間に被告会社に対する請求権を放棄する旨を内容とする本件示談契約を締結したものであり、極めて不当、不法なものである。

六  再抗弁に対する認否

1  再抗弁1の事実は否認する。まず、本件事故の状況については、被告会社は事故後遺族を事故現場に案内し、事故の状況を説明しており、特に訴外昌彦の実兄である訴外彦一は同じ場所で働いており、事故の状況は充分知っていた。したがって、仮に原告千代子が事故現場を見ていなかったとしても、案内された遺族、訴外彦一から事故の状況について説明をされているはずである。次に、被告会社は本件事故の責任を感じ、その損害を賠償するとの立場に立って、訴外昌彦の遺族及び原告千代子らと数回の折衝を重ねた結果、本件示談契約を締結するに至ったものである。更に、本件事故に関する新聞報道は事実を報道しているだけであるから、この記事から訴外昌彦の一方的過失により事故が発生したと判断することは早計である。最後に、本件示談書作成に際しても、訴外佐藤は原告千代子及び訴外彦一に対し示談書を読み上げ、本件示談により今後損害賠償請求はできなくなる旨を説明し、原告千代子もこれを了承したのである。したがって、本件示談契約には原告らの主張するような要素の錯誤はないといわなければならない。

2  再抗弁2の事実のうち、被告会社が原告らに対し示談金五〇万円を支払ったことは認めるが、その余の事実は否認する。本件示談契約は公序良俗に反するものではない。すなわち、第一に、示談金額については、当初原告側は二〇万円で納得したのであるが被告会社の自発的配慮により五〇万円に増額されたものであり、原告側は被告会社のこの好意的配慮に感謝の意を表して本件示談契約を締結したものである。原告らは示談金額を非難するが、本件事故当時の社会経済状況ことに労務賃金額、労災保険法や自動車損害賠償保障法による保険給付額などと比較してみても、本件の示談金額が特に低廉であるということはできず、したがって、専ら現在の社会経済状況を前提とする原告らの右の非難は失当である。第二に、前記のとおり被告会社は原告らとの示談交渉にあたり、本件事故の状況等を原告側に充分説明し、納得を得て本件示談契約を締結したものであり、原告らの法律的無知及び窮迫に乗じて請求権放棄を内容とする示談契約を締結したものではない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1の事実のうち、被告会社が訴外昌彦を土工として雇傭していたことは当事者間に争いがない。右の当事者間に争いのない事実と《証拠省略》を総合すれば、訴外昌彦は昭和四一年一月一一日ころ被告会社と労働契約を締結し、以来被告会社において土工として労務に従事していた、との事実を認めることができる。なお、被告会社は訴外昌彦を雇傭していた旨主張するが、被告会社と訴外昌彦との間の雇傭関係に労基法が適用されることは弁論の全趣旨に照らし明らかであるから、被告会社と訴外昌彦との間の法律関係はいわゆる労働契約であるというべきである。

二  請求原因2の事実は当事者間に争いがない。

三  そこで、被告会社の責任について検討する。

1  使用者は労働者に対し、労働契約に基づき、労務の提供に対し賃金(報酬)を支払う債務を負担していることはいうまでもないが、もとより使用者の労働者に対する債務は右の賃金支払債務につきるものではなく、労働契約の内容が、使用者において労務給付の場所、設備、機械、器具等を提供し、労働者をこれに配置してその労務給付を実現させるものである場合には、使用者は、信義則上労働契約に付随する義務として、労働者に対し、労働者の生命及び健康に危険を生じないように注意する義務(いわゆる保護義務)を負担するものと解するのが相当である。そして、右の使用者の保護義務の具体的な内容は、当該労働契約の内容、使用者の提供する労務給付の場所等の具体的な状況により決定されるものであるが、更に旧法四二条以下及びこれに基づく旧規則(現在においては、労働安全衛生法及びこれに基づく労働安全衛生規則(昭和四七年労働省令第三二号。以下「新規則」という。)等の規定する使用者の義務も、使用者の労働者に対する保護義務の具体的な内容を構成するものというべきである。

2  次に、被告会社の負担する保護義務の具体的な内容を本件について考えてみると、《証拠省略》を総合すると、本件工事は福井県大野郡和泉村長野所在の九頭竜川に長さ三五〇メートル、高さ一二八メートル、盛立土砂量約六三〇万立方メートルのロックフィルダム及び地下発電所等を建設する工事であり、本件当時被告会社においては現地雇いの労働者を含め約一一〇〇名が本件工事現場において作業に従事していたこと、本件工事における発破の方式については安全性の見地から導火線発破ではなく電気発破の方式を採用していたこと、本件事故現場のあるダム盛立工事現場は洪水吐工事現場に隣接していたが、被告会社九頭竜川出張所の職務分掌上はダム盛立工事は工事課第一係が、洪水吐工事は同課第五係がそれぞれ担当し、相互に独立して工事を進行しており、また本件事故当時はダム盛立工事現場と洪水吐工事現場との間には小山が存在しており見通しはきかなかったこと、発破を行う際岩石等が飛散する危険区域の範囲は火薬の装薬量等の条件により異なるが通常の発破の場合水平距離で半径約三〇〇メートル以内であり、発破地点が高所にある場合には更に危険区域が拡大されること、洪水吐工事現場はダム盛立工事現場より高所にあり、従来から洪水吐工事現場において発破を行うとダム盛立工事現場の正面に岩石が飛散しており、ダム盛立工事現場は洪水吐工事現場において発破を行う場合には危険区域であると考えられていたこと、本件発破は、巾約一〇・七メートル、長さ約三一メートルの範囲内に発破孔七六個を穿孔し、これに黒二号カーリットを一孔平均二キログラム、合計約一四八キログラムを装薬してされたものであり、岩石の飛散する範囲は、水平距離で二〇〇メートルないし三〇〇メートルに及んだものと認められること、本件建物は、昭和四一年四、五月ころ工事課第一係の佐藤班が作業員の休息の用に供するために建てたものであり、内部には椅子、テーブルのほか二畳ほど畳を敷いてあったものであるが、本件発破箇所から約一四八メートル離れたダム盛立工事現場に存し、その構造はバラック建てで発破により飛散してくる岩石の衝撃に充分耐えられるものとは認められないこと、ダム盛立工事現場には発破前に危険地区から作業員が退避したかどうかを確認するための見張所が設置されていたが、この見張所からは本件建物内部にいる人が腰をおろし又は横がしているときにはこれを視認しえない状態にあったこと、訴外昌彦は被告会社九頭竜川出張所のうちの浜田班に所属し、昭和四一年七月ころから本件工事のうちバッチャー・プラント、骨材プラントの運転の作業に従事していたが、同年八月下旬同班がダム盛立工事現場のうちダム左岸コア部の岩盤清掃の作業を応援することになったことに従い、同月二六日から右の作業に従事していたこと、本件発破時は、昼食時に当っていたため、本件建物内には訴外昌彦ほか一三名の作業員が食事をしたり休息したりしていたこと、以上の事実を認めることができる(《証拠判断省略》)。そして、右に認定した状況の下において洪水吐工事現場における電気発破作業を実施するに際しては、被告会社は、訴外昌彦ら労働者の安全を保護するために、以下のような内容の保護義務(債務)を負担していたものというべきである。すなわち、発破作業を行う場合に一般的に遵守されるべきこととして、第一に旧規則四四条の三第一項各号の一に該当する資格を有する者のうちから発破作業指揮者を定め、その者をして発破作業全体の指揮を執らせるべきであり(旧規則一五二条の三及び新規則三二〇条参照)、第二に当該事業場において作業に従事する労働者に対し、発破作業の実施要領、とくに点火時刻及び具体的な危険区域の範囲等を周知徹底せしめ、危険区域内の労働者に対しては退避に充分な時間的余裕をおいて退避すべき旨を予め警告しておくべきであり、第三に右の発破作業指揮者は点火前に危険区域から労働者が退避したことを確認すべきであり(旧規則一五二条の三第一項二号及び新規則三二〇条一項二号参照)、且つ、その確認の方法は見張所等からの視認のみではなく、危険区域内を監視員により巡回させ、更に労働者の点呼をとるなどの措置により退避確認を確実ならしめるべきである。殊に、本件においては、洪水吐工事現場において発破作業を実施する場合、ダム盛立工事現場も危険区域に含まれるにもかかわらず、被告会社の職務分掌上右両現場は工事課の下ではあるが相互に独立した係のもとで工事を進行していたのであるから、洪水吐工事現場において発破作業を実施するに際しては、特に労働者の退避の確認について、両工事現場を統括する一元的な指揮体制を定めその指揮の下に労働者の退避の確認を行うべきであり、前認定の事実に徴すると被告会社の本件発破担当者もしくはその責任者は本件発破の際、労働者が本件建物内で休息していることを容易に知りえたというべきであるから、右退避の確認にあたっては危険区域内に存する本件建物内に作業員が残存していないかどうかをも確認すべきであったというべきである。

3  そこで進んで被告会社が右の具体的な保護義務を履行したかどうかを検討することとする。

《証拠省略》を総合すると、(一)当時洪水吐工事現場において発破を実施する場合、洪水吐上部は発破技士の免許を有する訴外猪熊茂男(以下「訴外猪熊」という。)が、同下部は訴外小野太一(以下「訴外小野」という。)がそれぞれ発破責任者となって発破作業を指揮しており、更に工事課第五係(洪水吐工事係)の係長であり甲種火薬類取扱保安責任者の資格を有する訴外加藤政雄(以下「訴外加藤」という。)も発破作業の指揮にあたっていたこと、しかしながら、右の訴外猪熊、同小野及び同加藤は発破作業のうち火薬の装てん・発破作業に従事する労働者の危険防止・点火の指揮などの個別的な作業の指揮は行っていたものの、旧規則の定める電気発破作業指揮者の行うべき危険区域内の労働者の退避確認などは後記(三)に記載した程度の行為を実行したにすぎなかったこと、被告会社九頭竜川出張所には旧規則に定められた発破作業指揮者は存在しておらず、また同出張所の内規である「発破作業規則」にも発破作業指揮者を置くべき旨の規定はなかったこと、(二)本件工事現場においては、発破の実施は工務課が工事事務所の黒板に実施時刻(大規模な発破の場合を除き発破実施時刻は一定していた。)及び場所を書くことにより発破を実施する係以外の係にも通知しており、また工程会議などにおいても他の係に対する通知が行われていたこと、しかしながら、右の手段により発破の実施を知りうるのは被告会社の従業員のうちいわゆる正社員がほとんどであって、工事課の各係を構成する班(実質的には被告会社の下請人である。)に所属する現地雇いの世話役、労働者などは見張所の行う放送・サイレンの吹鳴により発破直前に知らされるのであるが、右の放送などによっては発破実施の時刻を知ることはできても具体的な危険区域の範囲を知ることは不可能であったこと、(三)本件発破については、昭和四一年八月二九日午前一一時五五分ころ、洪水吐工事係の訴外猪熊からダム盛立工事現場の見張所に対し午後〇時一〇分に本件発破を実施する旨の電話による連絡があったこと、右の連絡に併せてなされたダム盛立工事現場における退避確認の依頼に応じて、ダム盛立工事係の係員訴外中本末雄(以下「訴外中本」という。)は見張所において午後〇時ころから四回にわたり発破予告・退避警告・交通しゃ断要請を内容とする放送(第一回目及び第四回目にはサイレン吹鳴を併用した。)を行った後、午後〇時一〇分に点火を指示する旨の放送を行ったこと、ダム盛立工事現場では右の放送に従い監視員が工事現場を通過する国道をしゃ断して工事関係者以外の者や車両等の進入を阻止する措置をとり、また洪水吐工事現場においても交通しゃ断・同現場内の労働者の退避確認などの措置をとった後点火指示の放送に従って点火をしたこと、しかしながら、当時ダム盛立工事現場においては危険区域内の労働者の退避を確認するため、監視員をして危険区域内を巡回させその退避完了の報告を確認したうえで点火指示の放送を行うという体制になっておらず、実際も危険区域内の巡回を行っていなかったので、訴外中本は右の点火指示の放送をするにあたっては見張所の窓からダム盛立工事現場内の危険区域に労働者がいないことを一応視認したにとどまり、それ以上の危険区域からの労働者の退避を確認する措置は講じなかったこと、以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

以上認定したところによれば、被告会社は被告会社の負担する前記2の保護義務をいずれも充分に履行しなかったことが明らかであり、本件事故は被告会社が右義務の履行を怠ったことにより発生したものといわなければならないから、被告会社には右の債務不履行により訴外昌彦が被った損害を賠償すべき責任がある。

4  被告会社は、訴外昌彦は本件発破を事前に知っていたにもかかわらず本件建物を安全と軽信して退避しなかった、と主張する。なるほど、《証拠省略》によれば、訴外昌彦は見張所からの放送により本件発破の実施を知っていたこと、本件建物を安全と考えていたことをそれぞれ推認できる。しかしながら、右3に掲げた各証拠によれば、本件建物の内部ないし周囲には本件建物は危険区域内にあるから発破の際は退避すべき旨の掲示などはされていなかったことが認められ、この事実と右2及び3で認定した訴外昌彦らは本件事故の数日前から他の係よりダム盛立工事現場に応援のため派遣されていたこと、本件工事現場では労働者に対し発破による具体的な危険区域の範囲を周知徹底させていなかったことに照らして考えると、訴外昌彦が本件建物を安全と考えたことについて過失はなかったというべきである。したがって、被告会社の右の主張が被告会社の免責あるいは過失相殺の主張を含むとしても、その前提を欠くからその余の点について触れるまでもなく失当である。

四1  被告会社は抗弁1において、本件示談契約により原告らは被告会社に対する本件事故に基づく損害賠償請求権を放棄した、と主張するので、この点について検討する。

《証拠省略》によれば、被告会社九頭竜川出張所の労務課長代理(当時)訴外佐藤は本件事故後原告側と本件事故の補償問題について交渉し、昭和四一年一〇月一一日、原告千代子宅において原告林たか子、同林昌浩、同林ひろみ(以下、それぞれ「原告たか子」、「原告昌浩」、「原告ひろみ」という。)の母である原告千代子との間で、本件事故に関し被告会社は原告らに慰藉料として総額五〇万円を支払う、これにより原告らと被告会社双方は本件事故に関し相互に何らの権利又は請求権のないことを確認する、という内容の本件示談契約を締結したこと、翌一二日原告千代子は右の慰藉料五〇万円を受領したことをそれぞれ認めることができ(る。)《証拠判断省略》原告らは、本件示談契約の示談書の文案などは被告会社において一方的に作成され、原告千代子は三人の幼児の世話をしながら訴外佐藤と訴外彦一との交渉を聞いていたにすぎず、また訴外佐藤が示談書の条項を一方的に読み上げ、原告千代子の印を受け取って同訴外人が自ら押捺して示談書を作成したのであるから、原告千代子には被告会社に対する損害賠償請求権を放棄するという認識ないし意思は全く存在していなかった、と主張する。なるほど、前掲各証拠によれば、本件示談契約の示談書の文案及び原告千代子の記名は被告会社が作成ないし記載したこと、原告千代子は原告たか子ら三人の幼児の面倒をみながら示談交渉に参加していたこと、訴外佐藤は原告千代子から同人の印鑑を受け取って自ら示談書に押捺したことをそれぞれ認めることができる。しかしながら、一方、《証拠省略》によれば、訴外佐藤は本件示談契約の締結にあたり、示談書を原告千代子に渡したうえで示談書の条項を読み上げ、右の条項について今後一切この件で終わりになるという趣旨であることを説明したことが認められ、また《証拠省略》によれば、原告千代子は同人の印鑑を訴外佐藤に貸し渡し、同訴外人が押捺することを了承していたものであって、同訴外人が無断で使用したのではないことが認められ、これらの事実に照らして考えると、原告千代子に被告会社に対する損害賠償請求権を放棄する認識ないし意思が存在していなかったということはできない。

2  そこで進んで再抗弁について検討することとするが、原告らは再抗弁1において、原告千代子には本件示談契約の前提となる事実について重大な錯誤があり、これに基づいて締結された本件示談契約は無効であると主張するので、まずこの点から判断する。

《証拠省略》を総合すると、原告千代子は本件事故の発生の知らせを受けて直ちに本件工事現場にかけつけたが、訴外昌彦は既に九頭竜川厚生診療所に収容されていたので同診療所に赴いたこと、被告会社では事故後訴外昌彦の遺族を本件事故現場に案内したが、原告千代子は、右の遺族の中には入っておらず、したがって事故現場に案内されたことはなく、またその後も訴外佐藤などの被告会社の者からはいうまでもなく本件工事現場で作業に従事していた訴外昌彦の実兄訴外彦一からも本件事故の詳細な状況及び原因などについて説明を受けたことはなかったこと、原告千代子は訴外昌彦の給与の明細の調査に訪れた労働基準監督署員に本件事故の状況を尋ねたところ説明を拒否されたこと、本件事故に関する新聞紙の報道は発破により飛散した岩石が昼寝中の訴外昌彦の頭部に命中した旨報じていたこと、原告千代子は、右新聞報道に基づき訴外昌彦の側に本件事故の責任があると考えていたこと、以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》そこで、右に認定した事実に基づいて判断すると、原告千代子は、本件事故の詳細な状況、発生の原因などについて被告会社からはいうまでもなく、労働基準監督署員などからも正確な事情を説明されなかったので、右のように新聞紙の報道から訴外昌彦の側に本件事故の責任があるものと考えて本件示談契約を締結するに至ったものと推認されるところ、本件事故の発生について訴外昌彦に過失があったといえないことは既に認定したとおりであるから、原告千代子には本件示談契約の前提となる本件事故の発生原因、その責任の所在について錯誤があったものというべきであり(被告会社の自認するように本件示談契約は被告会社に事故の責任があることを前提とし、補償額を合意するものであるから、事故の原因、責任の所在についての錯誤は本件示談契約の前提事実についての錯誤と考えられる。)、且つ、社会通念上右のような錯誤がなければ原告千代子は被告会社に対する損害賠償請求権の放棄を内容とする本件示談契約を締結することはなかったと考えられるから、右の錯誤は要素の錯誤にあたるものというべきである。

したがって、本件示談契約は錯誤に基づいて締結されたものとして無効といわなければならず、原告らの再抗弁1は理由がある。

五  そこで更に進んで本件事故により原告らに生じた損害について検討する。

1  訴外昌彦の損害

(一)  逸失利益

訴外昌彦が本件事故による死亡当時満四二歳であったことは当事者間に争いがなく、当裁判所に顕著である厚生省発表の第一二回完全生命表によると、満四二歳の男子の平均余命は二九・九四年であり、就労可能年数は二一年とみることができるところ、《証拠省略》によれば、訴外昌彦は、普通健康体の男子であったことが認められるから、本件事故により死亡することがなければ、なお少くとも二九年間は生存することができ、二一年間は就労することができたものと推認される。

《証拠省略》によれば、訴外昌彦は昭和四一年一月一一日より被告会社に勤務し、死亡当時の平均賃金(労基法一二条参照)は一日あたり一〇〇一円であったことが認められる。そして、労働者の賃金が昭和四一年以降昭和五〇年まで毎年ベース・アップによる昇給があったことは公知の事実であり、その比率は当裁判所に顕著である労働大臣官房統計情報部発表の労働統計調査月報によれば別表5のうちのべース・アップ率の記載のとおりであると認められる。そこで、右に基づいて訴外昌彦の昭和四一年九月より昭和五〇年一二月までの収入を計算すると、別表5記載のとおり七〇四万一七九六円となる。

次に、訴外昌彦は昭和五一年以降同訴外人が満六三歳に達する昭和六二年までの一二年間(一四四か月間)なお稼働しえたものと考えられるところ、原告ら主張のとおり少なくとも毎月一〇万円の収入を得るものと推認されるから、月別複式ホフマン式計算により年五分の中間利息を控除して現価を算出すると、その額は別表2記載のとおり一一二六万一三〇〇円となる。

以上によれば、訴外昌彦の逸失利益は合計一八三〇万三〇九六円となるところ、訴外昌彦の生活費については同訴外人の年収の三〇パーセントをもって相当とするから、これを控除すると訴外昌彦の逸失利益は結局一二八一万二一六七円(円未満切捨)となる。

原告らは、訴外昌彦の逸失利益の算定について、昭和四一年九月から昭和五〇年一二月までの訴外昌彦の収入は総理府統計局作成の日本統計月報(昭和五〇年一二月版)のうちの産業別労働者賃金の統計数値により計算すべきである、と主張する。しかしながら、原告らの右の主張は訴外昌彦が死亡当時定職を有していなかったことを前提とするものであるところ、訴外昌彦が死亡当時被告会社に勤務していたことは原告らの自認するところであり、逸失利益の算定において基礎となる収入は、有職者の場合には統計的数値によることなく現実に支払を受けていた賃金等の収入によるべきであるから、原告らの右の主張はその前提を欠き失当というべきである。

(二)  慰藉料

前記認定の本件事故の態様その他諸般の事情を考慮すると、本件事故により訴外昌彦の被った精神的苦痛に対する慰藉料としては五〇〇万円が相当であると認められる。

(三)  原告らの相続

原告千代子が訴外昌彦の妻であり、その余の原告らがいずれも原告千代子と訴外昌彦との間の子であることは当事者間に争いがないから、原告らは原告千代子三分の一、その余の原告ら各九分の二の割合で訴外昌彦の前記逸失利益及び慰藉料の損害賠償請求権を相続により承継取得したことになり、その額は原告千代子五九三万七三八九円、その余の原告らが各三九五万八二五九円(いずれも円未満切捨)となる。

2  原告らの慰藉料

原告らは、本件事故により原告らは精神的苦痛を受けたが、このようなことは被告会社において充分に予測しえたことであるから、被告会社は右の損害についても賠償責任がある、と主張する。原告らの右主張は、訴外昌彦の取得した権利を承継したというものではなく、被告会社の債務不履行により、原告らが、自己固有の権利として、被告会社に対し慰藉料請求権を取得したという主張と解されるところ、原告らが被告会社と契約関係にあったことについては何ら主張立証がないのであるから、訴外昌彦の死亡により原告らが精神的苦痛を被ったとしても、被告会社の債務不履行を理由としては慰藉料を請求することができないことは明らかである。

したがって、債務不履行を理由とする原告らの右の慰藉料請求はその余の点について判断するまでもなく失当である。

六  損害のてん補

1  抗弁2の事実は当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、右五〇万円は、原告らの相続分に応じて、原告らが相続した前記損害賠償請求権に充当されたものと認められる。

2  抗弁3(一)の事実は当事者間に争いがない。右の当事者間に争いのない事実と《証拠省略》によれば、原告千代子は本件事故について労災保険給付決定を受け労災保険から年金の支給を受けていること、前払一時金を含め原告千代子が既に支給を受けた昭和五一年四月分までの年金の額は三二四万一二四二円であることが認められる。そして、更に昭和五一年五月分から八月分までの年金として二六万八八七二円の支給を受けたことは原告らの自認するところであるから、結局原告千代子が労災保険から支給を受けた年金の額は合計三五一万〇一一四円であると認められる。債務不履行により死亡した者の遺族が労災保険法に基づく年金の支給を受ける場合には、公平の理念に照らし、支給を受けた年金はこれを当該遺族が相続した死亡者の逸失利益に基づく損害賠償請求権の額から控除すべきものと解するのが相当である。したがって、本件においても、前記のとおり原告千代子が支給を受けた年金(三五一万〇一一四円)は、原告千代子が相続した訴外昌彦の逸失利益に基づく損害賠償請求権の額(四二七万〇七二二円)からこれを控除すべきである。

被告会社は右の年金は原告千代子以外の原告らからも控除すべきであると主張するが、年金の控除は受給権者の損害賠償請求権の額から控除する場合に限り許され、受給権者でない相続人の損害賠償請求権の額から控除することは許されないと解すべきであり(最高裁判所昭和四七年(オ)第六四五号同五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一三七九頁参照)、本件における年金の受給権者は労災保険法一六条の二ないし四の規定によると受給資格者のうち配偶者として最先順位にある原告千代子ひとりであると認められるから、被告会社の右の主張は失当である。

3  更に、被告会社は、原告らが将来給付を受けることが確定した年金についても現価に引き直して損害額から控除すべきであると主張する。しかしながら、労災保険給付決定があったということだけでは、遺族が現実に補償を受けたということはできないというべきであり、また被告会社が主張するような解釈をとるとすれば、遺族は将来得る年金額の現価の限度では損害賠償請求権について分割弁済を強いられるという労災保険法が年金制度を採用した趣旨に反する結果となるのであるから、労災保険に基づく年金による損害の控除は右2に述べたとおり受給権者が現実に年金の支給を受けた場合に限り認められるものと解するのが相当である。したがって、被告会社の右の主張は失当というべきである。

七  弁護士費用

使用者が、労働契約に付随して信義則上労働者に対して負う保護義務に違背し、損害を加えた場合においても、その被害者が、自己の権利擁護のために訴の提起を余儀なくされ、訴訟遂行を弁護士に委任したときには、その弁護士費用は、事案の難易、認容された額等諸般の事情を斟酌して相当と認められる額の範囲内のものにかぎり、右債務不履行と相当因果関係のある損害と解するのを相当とするところ、被告会社に対し、原告千代子は二二六万〇六〇八円、その余の原告らは各三八四万七一四八円をそれぞれ請求しうるところ、《証拠省略》によれば、原告らは被告会社が原告らの請求に応じないため、弁護士である原告ら訴訟代理人に本訴の提起、遂行を委任したことが認められる。そして、本件がかなり事実上及び法律上困難な問題を含む事案であることのほか、請求額、請求認容額等本訴にあらわれた諸般の事情に照らして考えると、本件債務不履行と相当因果関係のある損害として原告らが被告会社に請求しうる弁護士費用は、原告千代子について三〇万円、その余の原告らについて各四〇万円をもって相当と認められる。

八  結論

以上の次第で、原告らの本訴請求は、被告会社に対し、債務不履行に基づく損害賠償として、(一)原告千代子が二五六万〇六〇八円及び内金二二六万〇六〇八円に対する本訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和四七年七月一三日から(原告らは被告会社の右の債務の履行期について何ら主張立証しないから右の債務は期限の定めのない債務というべきところ、原告らが昭和四七年七月一二日に被告会社に送達された本訴状により履行を請求したことは記録上明らかであるから、被告会社は、翌一三日から遅滞の責を負うべきこととなる。)、内金三〇万円(弁護士費用)に対する本判決言渡の日の翌日である昭和五二年六月一六日から各支払済みに至るまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払を、(二)原告たか子、同昌浩及び同ひろみが各四二四万七一四八円及び内金三八四万七一四八円に対する右(一)と同じく昭和四七年七月一三日から、内金四〇万円(弁護士費用)に対する本判決言渡の日の翌日である昭和五二年六月一六日から各支払済みに至るまで民法所定の年五分の遅延損害金の支払をそれぞれ求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柏原允 裁判官 柴田保幸 裁判官 志田洋)

〈以下省略〉

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